名古屋城について / 名古屋城の歴史
前史・那古野城跡
信長も住んだ那古野城、室町時代から続く城の歴史
現在、名古屋城が建つ場所には、那古野城と呼ばれる城が室町時代から建っていました。
城の主は今川氏、織田氏と変わり、後に廃城となりますが、
徳川家康は尾張地方の拠点としてこの地に再び城を築きました。

現在の名古屋城二之丸のあたりには、室町時代から前身となる那古野(なごや)城が建っていました。城主は鎌倉時代後期から名古屋台地北部の那古野の地を領有していた今川氏の一族で、1433年(永享5)には館の存在が史料から確認できます。大永年間(1521-1524年)頃に駿河守護今川氏親が館を改修し、子の氏豊をおいたとされています。
室町幕府が没落し戦乱の世となると、尾張守護代であった織田家の中で信長の父・織田信秀が台頭。1538年(天文7)頃、今川義元の弟・氏豊の居城だった那古野城を奪い取ります。その後、古渡城(現在の名古屋市中区)を築いて居を移すと、信長に那古野城を譲りました。
1555年(弘治元)、当時、尾張の中心だった清須城に信長が移ると、那古野城は信長の叔父にあたる信光が城主となります。信光が没すると、重臣である林秀貞(ひでさだ)の居城となり、 1582年(天正10)頃には廃城となったとされています。
その後、信長は尾張統一を果たし、1560年(永禄3)、桶狭間の戦いに清須城から出陣。尾張に侵攻してきた今川義元に勝利します。そして小牧山城、岐阜城、近江の安土城に拠点を移しながら、天下統一に向けて勢力を伸ばしていきますが、1582年(天正10)、本能寺の変によって没し、豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられることになりました。
1598年(慶長3)、秀吉が没した後、1600年(慶長5)に天下分け目の関ヶ原の合戦にて徳川家康が石田三成ら反家康勢力を破り、天下の覇権を握りました。
信長が小牧山城に移った後、清須城には信長の次男・信雄(のぶかつ)、秀吉の甥・秀次、福島正則が入り、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、四男・松平忠吉、九男・義直を入城させます。
当時まだ不安定な政情だったため、家康は尾張の守りを重視していました。上方と江戸を結ぶ東海道の防衛を固めておかなければならず、その中間点に位置する尾張に徳川の砦を置く必要がありました。それは巨大な軍事要塞でもあった名古屋城築城へとつながります。